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触れる 語る シリーズ2

形井秀一氏 ゲスト 志村真介氏 (ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ ジャパン代表)

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」は視覚障害者を案内役に、1組8人の参加者が白杖を持って暗闇を探検する。形井秀一氏は対談3週間前に暗闇を体験。そしてドイツで生まれたこのエンターテイメントを日本で続けている志村真介氏との対談に臨んだ。視覚障害者の知恵と感性に囲まれ、触れることの重要性を実感しているという志村氏。その実感に呼応して形井氏が日本鍼灸における「触れる」の源を語り出す。

【対等な関係で触れ合う】

形井  私が勤める筑波技術大学は、視覚障害者と聴覚障害者のみが入学できる日本で唯一の国立大学で、世界でも数少ない大学です。ここで私は、鍼灸、あん摩を教えています。鍼灸、あん摩は、見る、聞く、臭いをかぐといった五感で得られる情報を大事にしていますが、五感の中でも特に私は、触れること、触覚に注目しています。この対談シリーズは、触れることの意味合いを語るなかで、心と身体に触れることをどこまで追究できるかが、大事なコンセプトです。
志村  実はダイアログ・イン・ザ・ダーク(以下、DID)のアテンド(案内役)の中には、筑波技術大学の卒業生もいます。その人は先天的な全盲ですが、イエス・ノーで完結するコンピューターの世界が好きだったそうで、筑波技術大学で学びました。ところがウインドウズが登場し、自分が構築してきたスキルが全く使えなくなったことを知り、自分はこの道では生きていけないと覚悟をしたそうです。彼は2001年頃にDIDのプロジェクトに出会いました。視覚障害者の疑似体験のイベントなら絶対に足を踏み入れたくなかったそうですが、そうではなかったので、そこにピンと来てアテンドになりました。コンピューターを勉強していたときの彼は、健常者と同じ土俵で戦えると思っていたでしょうから、かわいそうな障害者という考えは毛頭なかった。しかしDIDにかかわるうちに、目が見えないからこその固有の文化が今の世の中に役立つかもしれないと自覚し始め、彼のモチベーションは劇的にアップしました。
形井  既存の土俵に乗ってがんばれば「自分たちもできる」ことがいつか実現すると発想するのではなく、土俵は何種類あってもいいという発想ですね。

志村  ええ。例えば海外留学でその国の文化や歴史を勉強しに行くと、逆に日本の特徴を聞かれますよね。結局自分の固有の文化を見直さなければなりません。彼は再び自分の文化を見直して、目を使わないのは一つの文化だと再認識したと思います。
形井  文化、つまり自分の中の深い部分にあって、自分と切っても切り離せない特徴を認識したのですね。
志村  そうだと思います。目を使わず視覚以外の感性をより研ぎ澄ます方たちは、音や匂い、そして触れる文化が豊かです。ただ、彼らの豊かさに一般の人たちが触れるチャンスが少ない。視覚障害をお持ちの鍼灸師の方の治療を受ければ、もしかするとそれを理解できるかもしれません。しかし治療家と患者という立場ですから、悪いところを治してもらうときに、そのすばらしい感性の話をすることはあまりないと思います。当然ですが治療家と患者の関係性は逆転できません。なので、対等な対話はこのときは生じないのです。私はそれを否定したいのではありません。DIDの場合はその豊かな文化を持ったアテンドがゲストを連れて暗闇の中へいざないますが、視覚障害者であるアテンドと同様にゲストも目を使いません。暗闇の中をチームで協力し、そして対話し楽しみながら歩きます。その際アテンドはゲストの気づきや発見を妨げないように留意し見守ります。やがてゲストは目を使わずともほかの感覚がそれを補うことがある、ということが自ずと分かるようになります。このようにDIDの触れる関係は対等性の中にあります。肌が触れ合うよりも、関係をフラットにしながら文化が触れ合う感じです。
形井  いやあ、冒頭から非常に深い話になってしまいました(笑)。

【スピードの中で鈍くなるもの】

形井  対談の導入として、志村さんのこれまでの歩みを読者に紹介したいと思います。志村さんは20代の頃、井戸を掘るためにインドへ渡ったそうですね。その頃目指していたものはどのようなものですか。

志村  その井戸は露天掘りで、現地の職人の技法で現地の人たちと一緒につくりました。そのときはそれが持続可能な社会だと思いながらやっていました。若い頃って、人は本来誰しも対等なのに対等でない場面にたくさん出会い、その矛盾を正せば社会がよくなると、単純に考えてしまう時期でしょう。インドにはカースト制度が存在して、カーストにも入れないアウトオブカーストの人々の村に行くと確かに水もなく衛生管理も悪く、同じ人間の住む環境として劣悪です。そのなかで解決する方法を探して試行錯誤するわけです。今考えれば、あの頃は自分が社会の一員であることを外して考えていたのだと思います。でも、自分が主体的にその中にいるという意識がない状態で、社会が悪いとかどこが悪いとか批判しても何も変わらないのですよね。
形井  井戸ができても社会構造は変わるわけではないと感じたのですね。それでも井戸は現地の人たちにとって大変有用だったと思います。
志村  お金や物を持つ人が、不足しているところに移動することで状態が一時的によくなる場合もあると思います。しかし支援する側が止まってしまうと何も起こらない。そうではなく、自立できることを支援し、持続可能な仕組みがいいと思っていましたが、当時は方法が分かりませんでした。逆に自分が行くことによって余計に世話をかける部分が多いですし。でも、いい経験でした。
形井  その後しばらくは会社を経営し、経済の分野でお仕事をしていたけれども、納得できない部分があったとのことですが。
志村  大量生産、大量消費をより加速させるためのマーケティングの仕事だったので、ゲームのようにものすごく楽しいのだけれども、いつまでも持続する感じがしませんでした。

 

つづきは、雑誌「医道の日本2016年6月号」でお読みください。