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特集 灸の臨床

1.家伝灸「宝栄の灸」の実際 山田喜吉(山田鍼灸院)
2.愛媛県立中央病院鍼灸治療室における灸の臨床とうつ病の症例
      山見 宝(愛媛県立中央病院漢方内科鍼灸治療室)
3.チリゲの灸と灸の特効穴 宇都宮信博(宇都宮針灸科院)
4.WFAS TokyoTsukuba 2016講演録「直接灸による結核治療─原志免太郎とモクサアフリカ─」
    (鍼灸サイエンティフィックセッション②)
      原 寛(原土井病院)、マーリン・ヤング(Moxafrica)

 

1.家伝灸「宝栄の灸」の実際
山田喜吉

この業界には秘伝、家伝などと称される独自の鍼・灸療法が存在している。我が家にも、祖父が考案した灸法「宝栄の灸」が伝わっている。
「宝栄の灸」の呼称は、筆者が家業を継いだときに、この灸法を考案した祖父の実名「山田宝栄」から名付けた。祖父は大正期から昭和初期に活躍した人で、元は京都西陣の刺繍職人であったが、30歳頃に大病を患い、療養のため帰郷した。そこで、隣町で鍼灸治療院を開いていた中途失明の元医師「杢十先生(詳細不明)」に助けられ、そのまま弟子入りして鍼灸を学んだと聞いている。  
父は愚直の人であり、祖父の灸法を頑固に守り、戦後から55年間「宝栄の灸」一筋で地域医療に貢献した。現在は筆者と、4代目となる娘が家伝灸として「宝栄の灸」を守っている。祖父、父、筆者と延べ150年近く続く鍼灸院では「家伝のお灸」と称するに少しはばかられるが、その実績には誇りを持っている。

【「宝栄の灸」の実際】

  元医師の杢十先生に師事したことから、「宝栄の灸」は、西洋医学的な考え方に基づいている。適応疾患は多岐にわたり、医学が発達した現代において、西洋医学の領域からこぼれ落ちた疾病にも思わぬ効果を得ることが多い。

1. 取穴
「宝栄の灸」は、脊髄神経反射療法の一種である。脊髄神経反射療法とは、脊髄神経デルマトーム、ミオトーム、内臓体壁反射などの分節的神経支配を応用した、神経反射療法各種の総称である。

2.愛媛県立中央病院鍼灸治療室における灸の臨床とうつ病の症例
山見 宝

当施設では、時系列分析(脳・心・精神の記憶)、穴位反応分析(身体・ツボの記憶)、先賢(沢田流・深谷流灸法など)の優れた実践記録の活用、明堂経穴位主治の研究をもとに、沢田流灸法(太極治療)を基本とした治療を行っている。  
  灸は生理的機能の変調を整える、あるいは回復力を整える治療的ケアであることに特徴がある。また、スピリチュアリティーに対し、よい影響をもたらす手技でもあり、セルフケア、ファミリーケアとしても優れた鍼灸技術の一つである。本稿では、灸の基本的な技術については割愛し、本誌巻頭座談会の話題にも上がった、施灸のタイミングやイメージ、ツボについて言及する。

【施灸のタイミング、リズム、イメージ】

  施灸は呼吸を意識したリズムが大切である。呼気時に灸熱が浸透するようにする。艾炷を置く指の圧力・灸熱緩和の強さ・時間のかけ方などが、快・不快、興奮・鎮静、緊張・弛緩などを左右する。灸熱浸透感覚をイメージし、穴位所見の変化をイメージする。穴位所見の変化を確認する。指頭感覚での変化を確認すべきである。  
  また、灸療(セルフケア、ファミリーケア)に対する指導力を身につける。これは治療者自身が灸療に親しむ必要があるからである。小冊子・DVD・サンプル紹介・コースターの使用など灸療サポートグッズを作成するのもよい。

 

3.チリゲの灸と灸の特効穴
宇都宮信博

四国・愛媛県は灸が盛んだということで、お灸についての執筆依頼を受けた。せっかくの機会なので、最初に筆者の住む町の歴史を紹介し、その後、筆者が経験した特効穴の灸について述べる。

【シーボルトの門下生・二宮敬作の故郷 】

  1804年、愛媛県西宇和郡に生まれた二宮敬作は、医学を志して長崎へ渡って学んでいた。シーボルトが1823年に来日するとすぐに門下生になり、天下の蘭方医・蘭学者になった。1828年、シーボルト事件が起こり、長崎にいられなくなった敬作は郷里に帰り、宇和島藩主の命のもと1833年〜1855年の22年間、現在筆者が住んでいる卯之町で医業を開き、長崎で学び鍛えた治療で難病の患者を救ったという。敬作の親切で優しい「仁医」ぶりは、今も町民の間に語り継がれている。

  敬作は塾を開き、医学・蘭学を教え、三瀬周三、西良一といった蘭学の有名人もその門下だった。シーボルトの娘イネも卯之町を訪れ、敬作に医学の手ほどきを受け、日本初の女性蘭方医になったという。敬作は若者たちに、蘭学だけでなくさまざまな進歩的な考えを指導した。  
  シーボルトは長崎において、筑前黒田候より医術の極意を問われたのに対し、「医術はその風土に従うべきものであり、西洋には西洋人に適した医術があり、日本には日本人に適するものでなければ治効を得ることはできない。(略)これ医術の極意なり」と答えたという。まことに千古の名言を残した名医であり、日本の医学の発展に大きく貢献した。

 

4.WFAS TokyoTsukuba 2016講演録
「直接灸による結核治療─原志免太郎とモクサアフリカ─」
(鍼灸サイエンティフィックセッション②)

原 寛、マーリン・ヤング

【原寛氏「灸療法における医学的研究」】

  このような機会を与えていただいたこの学会に、誠に感謝申し上げます。まず、原志免太郎の話を少しさせていただきます。  
  原志免太郎は108歳まで元気に働いており、非常にたくさんの患者さんを診たということで有名です。「世のなかは必ず病気になるのだから、治すことではなく、病気にならないようにして、そして一生それを全うしたら、こんなよいことはない」とし、お灸の研究をしていました。  
  14歳から医療に従事し、19歳の頃に京都府立医学校に入学します。関東大震災が起こったとき、原志免太郎は東京で診療所を開業していました。被災したあとも、救護班に入り医療救護活動に従事しました。それから福岡に帰り、九州帝国大学医学部(現・九州大学医学部)の衛生学講座の宮入慶之助先生のもとで、研究を始めました。  
  47歳で、「灸に関する医学的研究」という医学博士の論文を作成いたしました。灸の西洋医学的研究ということで、当時は非常に有名になりました。その後、「原内科病院」を開業します。50歳になると結核の療養所をつくり、食事と環境とお灸による結核の治療を始めます。   そして、98歳で国際東洋医学学会に行って講演をいたしました。100歳になる頃には、お灸をした患者さんが25万人に達し、108歳と8カ月まで生きました。  
  19〜20世紀初めまで、日本では産業革命が起こりましたが、そのときに結核が非常に流行しました。これは国家問題になり、原志免太郎はこれをどうにかしなければならないと思ったそうです。

 

それぞれのつづきは、雑誌「医道の日本2017年3月号」でお読みください。