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座談会 吉田流あん摩術を究める
(動画あり)

芳野光子氏 殿村康一氏 大内晃一氏 鈴木稔子氏 吉田和大

『医道の日本』前号(900号)では、あん摩の名人・平川信代氏の技を探究する吉田和大氏を紹介したが、この座談会では吉田氏を含め平川信代氏の薫陶を受けた東京医療福祉専門学校の5人が、平川信代氏の人物像や触られた感触、教育現場での平川氏の振る舞いなどを述懐しながら、名人技の原点に迫る。言葉では表現しない名人からの学び方と後進への伝え方のコツは、模索の果てにある。

【吉田流あん摩と女性施術者の相性】

吉田    最初に芳野校長、平川信代先生のルーツを説明していただけますか。

芳野    平川信代先生は1924年11月29日に千葉県で生まれ、その後、高等女学校を卒業するまでの間は千葉で過ごしていました。定かではありませんが、東京に出てきている信代先生の姉といろいろ相談した結果、あん摩の治療院で、住み込みのできる築地にある金子治療院を見つけたのでしょう。金子治療院はたまたま吉田流あん摩術の施術をしていました。あん摩の稽古をする暇もなく、洗濯や掃除など生活面の仕事をたくさんこなして、大変な思いをしたと聞いています。それでも、休む暇もなく一生懸命稽古をしたそうです。1945年3月に東京大空襲があり、空襲を逃れた姉は千葉に帰りましたが、信代先生は金子治療院に残ってあん摩の施術者になるための技術を身につけました。そして、先生は他人に負けたくないという志を持って実技に励んでいたそうです。

吉田    当時、女性が手に職をつけることは難しかったと思われますが、信代先生があん摩をやろうと思ったきっかけは、お聞きになりましたか。

殿村康一氏、鈴木稔子氏による実技解説の動画を本WebサイトおよびYouTubeに公開しました。
鈴木稔子氏の動画は2ページ目にあります。本記事下の切り替えボタンをクリックしてください。

芳野    家族がよくあん摩にかかっていたのを子どもの頃から見ていて、病める人のために、あん摩をして楽にして差し上げたいという思いがきっかけだったと思います。また、温かい心の通う治療家として、手に職をつけ、職人として自立していこうという希望を抱いていたようです。

吉田   吉田流あん摩術は女性の施術者が多かったようですが、吉田流と女性の相性はよかったのでしょうか。

大内   当時の雑誌にも女性のあん摩師の活躍について書かれていますね。

吉田   1860年代以降に吉田流が流行ったとき、女性を使って開拓したのではないかと揶揄されていたんですよね。たしかに当時、花柳界含め宿場町など男性客が多いところに行っていたようで、女性の施術者のほうが活躍する場が多かったのでしょうね。とはいえ、決して弱揉みではないですよね。

殿村   『吉田流あん摩術』(医道の日本社)をつくるときに調べたら、強く揉んでもらうことを望む人たちがいて、吉田流は強揉みで流行ったという記載がありましたね。吉田流の、特に2世のときにはかなりの人数の施術者がいたのを考えると、強くしっかり揉むことができ、かつ女性の施術者が多かったことから吉田流が流行ったのではないかと。その流れをくんで、金子治療院も女性が多かったし、吉田久庵3世から直接指導を受けた平川荘作先生がつくった平川治療院も施術者は女性中心だった。また私が平川治療院に入ったとき、最初にやるのが指を鍛えることでしたし、しょっちゅう信代先生の足の裏や先輩の足を借りて長時間揉みました。信代先生が金子治療院に勤めていたときも、同じように指を鍛えていたと思います。

鈴木稔子氏による頭部への施術動画を本WebサイトおよびYouTubeに公開しました。

大内    杉山流の輪状揉みと比べて吉田流の線状揉みのほうが体重を乗せるので、強く揉むには理にかなったやり方だと思います。

吉田   東京マッサージ師養成所に在学していた当時の写真を見ると、信代先生は体格がいいほうです。力仕事にも自信があって、吉田流あん摩術ならできると思ったかもしれないですね。

芳野   当時は恰幅がよく、大きなサイズの着物を着ていました。皆さんもご存知でしょうけど、信代先生はふわっとした手で、人一倍すばらしい親指をしていました。ご自身に向いていると思って、あん摩の道を選んだのではないでしょうか。

吉田   芳野校長と信代先生の出会いは、いつ頃でしょうか。

芳野   私は信代先生の姪です。1964年、私が大学1年生のときに先生が大病をしているので、母から看病をしてほしいといわれたのが先生との出会いでした。

吉田   殿村先生は、信代先生とはどのように出会いましたか。

殿村   私は1985年に本校に入学し、私のいとこがその前に信代先生が経営していた平川治療院に勤めていたことがご縁で、入学と同時に治療院にも入り、お手伝いさせていただくことになりました。

吉田   当時の平川治療院は八丁堀3丁目にありましたから、学校が終わったあとすぐに治療院に行って従業員として働いていたわけですね。

殿村   先輩たちに一生懸命、稽古をつけてもらいましたね。信代先生にはとにかく顔を見るたびに「稽古、稽古」。そればかり言われていました。

 

つづきは、雑誌「医道の日本2018年10月号」でお読みください。