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「医道の日本」プレイバック!(6)
国際鍼灸学会開催

1965年、10月18~20日の3日間にわたり、都立東京文化会館において「国際鍼灸学会」と銘打たれた、日本で初めてとなる鍼灸の国際的な学会が開催された。これは世界的にも画期的な試みであり、アメリカ、フランス、イギリス、アルゼンチン、韓国など海外19カ国から約100人、国内からは約800人の参加者が集結した。

 

この栄えある学会の特別講演を担ったのは、東京大学の大島良雄氏と金沢大学の石川太刀雄氏。両氏とも大学機関における鍼灸研究の礎を築いた医師として、昭和鍼灸史に大きな足跡を遺している。一方、海外勢の発表については、倉島宗二氏は本誌1965年12月号に掲載された印象記で以下のように評している(引用は原文のまま)。

 

無遠慮に単的に評すれば、招待講演はフランスを除けば、(中略)それ以外殆んど傾聴に値する研究が見られず、残念であると共に、こと針灸に関する限り、日本に一日の長あることが判って安堵に似た感慨を覚えた

 

学会運営の中心にあったのは、当時日本鍼灸師会会長だった岡部素道氏と、その片腕として活躍していた木下晴都氏。学会開催の目的について、本誌1965年9月号に掲載された木下氏の「国際鍼灸学会近づく」では以下のように記されている。

(前略)日本国民の一部には、欧米医学の理論のみに目を奪われて、鍼灸治療の経験もなく、また実体を知ろうともせず、野蛮的ないし迷心的療法と決めている向も少なくないので、これを打破しようとするのにあつた。(中略)外国思想に弱い日本人、舶来ずきの日本人には、この世界の動静を各国の方々に持ちよつてもらうことが、食わずぎらいの人々に理解させる早道であると考えたのが、日本において日際鍼灸学会を開く目的の一つであつた

 

上記をみると、一般の国民に鍼灸の認知度を高めるため、日本に比べればまだまだ発展途上だった海外の鍼灸事情を日本に逆輸入しようとする意図が読み取れる。結果的に、同学会はマスコミにもある程度注目されたようで、後に本誌上で行われた座談会において木下氏は「国内的には十分の成果があつたと思うんです」と振り返っている。

 

戦後20年、力を蓄えた日本鍼灸界が世界の鍼灸と向き合った国際鍼灸学会。その内幕を描写した「国際鍼灸学会の裏窓」(森秀太郎氏)と、会場の熱気が伝わる口絵記事にプレイバック――。

 

 

【1965年 月刊「医道の日本」11・12号  PDFファイル】

pdf_icon.jpg 1965年 月刊「医道の日本」 11月号口絵
(PDF 2.89MB)
pdf_icon.jpg 1965年 月刊「医道の日本」 12月号口絵
(PDF 3.41MB)
pdf_icon.jpg 1965年 月刊「医道の日本」 12月号23・24ページ
(PDF 3.15MB)
pdf_icon.jpg 1965年 月刊「医道の日本」 12月号25・26ページ
(PDF 3.38MB)
pdf_icon.jpg 1965年 月刊「医道の日本」 12月号27~29ページ
(PDF 4.71MB)

 

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なお、国際鍼灸学会は4年ごとに開催されることが決定され、その後第2回目は1969年5月にフランスで、1973年に韓国で第3回目が開催された。この韓国での開催時に2年ごとの開催に変更され、1975年2月にアメリカにて第4回目が開かれた。1977年の第5回目は再び日本開催となり、このときは全部で32カ国が名を連ね、海外からの参加者は約400人にのぼった(国内からは約1200人)。1979年にはフランスで第6回目が開催され、1981年にスリランカで第7回が開催された。


本誌1982年1月号に掲載された黒須幸男氏の「学会記」には、このときの各国代表者会議にてトラブルがあったことが記されており(さらに83年11月号の本誌口絵には、「事務局を握るフランス側〔SIA〕と大会執行部を握る日本側の二つに分裂」とある)、1983年の第8回はブルガリア(5月)とオーストリア(10月)で別々に開かれた。これ以降、85年にカナダで第8回が開催された後、自然消滅した。

(上記の経緯は本誌の記事と黒須氏の談話から構成)

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