古医書を語る

真柳誠、小曽戸洋、武田時昌(司会)

  現在、東アジア伝統医療文化に関する共同研究プロジェクトを推進する、京都大学人文科学研究所教授の武田時昌氏の司会のもと、北里大学客員教授・日本医史学会理事長の小曽戸洋氏、『黄帝医籍研究』で第28回矢数医史学賞を受賞された茨城大学名誉教授の真柳誠氏を招き、鼎談を行った。近年、中国で発掘された出土資料の最新事情を交えながら医学史研究の新局面を概観し、古医書の深淵なる世界を語り合った。

 

【すべては「馬王堆」から始まった】

武田  古医書について長く研究されている、小曽戸洋先生と真柳誠先生に集まっていただきました。東洋医学に従事する治療家や研究者ならば、古医書の重要性を否定する人はおそらくいないでしょう。研究するところまでいかなくても、関心を持っている人も多いんじゃないかと思うのですが、その一方で、古医書には、難解でとっつきにくいという印象もあります。古医書の世界への誘いとして、最近、関心を持っていることやご自身の体験談を通して読み方、味わい方をお聞かせいただければと思います。
   今一番ホットな話題としては、何といっても2013年、四川省成都天回鎮の老官山前漢墓より出土した経穴人形や医簡でしょうね。扁鵲学派の医書だと大騒ぎになっています が、いかがでしょうか。
真柳  老官山での発掘は今、内容が明らかになってきていますが、鍼灸も漢方も両方とも、これまでの常識を覆すことになると思います。馬王堆での発掘並みの大発見ですよ。
武田  私もそう思います。その話に入る前に、馬王堆医書が発見されたときの衝撃について、振り返っておきましょうか。中国医学史研究の大きなターニングポイントとなったわけですから。馬王堆1号漢墓の発掘調査は1972年1月に始まりますが、その夏には「発掘簡報」が早々に発表され、日本でも大ニュースになりました。話題の中心は、2100年以上前の屍体がほぼ完全な湿屍(いわゆるミイラは乾屍)で発見されたことで、京都大学名誉教授の貝塚茂樹博士も「奇跡は起こった」と驚きの声をあげました。
  さらに、1973年末から1974年初にかけて、今度は第3号漢墓から竹簡、帛書がたくさん発掘され、それらは驚いたことに『老子』や『易』を含む古写本でした。そのなかに、天文書や医薬書、養生書も含まれていて、黎明期の科学文化に関する新証言と色めき立ったわけです。
真柳  なにしろそれまでの伝承文献では、漢代どころか六朝時代(3世紀前半ごろ〜6世紀末ごろ)すら正確にたどることが極めて難しかったわけですから、中国医学の史的研究に大きなインパクトを与えましたよね。もっとも当時、私は大学の薬学部に入学したばかりで、漢方にも鍼灸にも関心がなく、バンド活動ばっかりやっていましたけど(笑)。

武田  私も当時は、大学1年生だったのですが、ニュースを観たのをよく覚えています。当時は工学部電子工学科のプラズマ空間に迷い込んでいましたので、まさかそのとき出土した医書の研究に携わるとは、夢にも思っていませんでした。
小曽戸  墓から医書が多数出てきたと報道されたときのことは、私も印象に残っています。それは8月3日で、暑い夏の季節でした。私は田舎に帰省していて、オヤジ(小曽戸丈夫氏のこと)と一緒に寝転びながら新聞を読んでいたんです。すると、「洋、こんなの、あるぞ」とオヤジが言うから、記事を読んで驚きました。「ええっ、『黄帝外経』が出た。すごいね、見てみたいね」と親子で興奮したことがすごく印象に残っています。紀元前の墓から『黄帝外経』*と『脈経』が出てきたというのですから、大変な驚きでしたね。
武田  そのときすでに『黄帝外経』という言葉に反応できたわけですね。
真柳  だって小曽戸先生は、小学校のときから『傷寒論』を読んでいるんだもん(笑)。
武田  発掘された古医書について、中国で部分的写真や釈文や論考などが発表されることになりますが、小曽戸先生が馬王堆の竹簡・帛書を読み始めたのはいつぐらいですか。
小曽戸  出土から10年経った頃ですね。『文物』や馬王堆漢墓帛書整理小組編の『馬王堆漢墓帛書肆・五十二病方』(文物出版社、1979年)などで、文献が公開され始めました。また、湖南省博物館(長沙市)で限定販売された内部刊行誌にだけ公開された文献もあって、その掲載誌を手に入れようと必死になっていました。そのときには、すでに北京留学中の真柳先生と知り合っていたんですが、中国でお互いに情報をかき集めていました。真柳先生がいたので、北里研究所東洋医学総合研究所は情報を早くから入手することができました。
真柳  中国ではまるでスパイのような活動をしていましたよね(笑)。内部刊行誌でのみ掲載された文献は、『十問』『合陰陽』『雑禁方』『天下至道談』などです。公になかなか発表しなかったのは、おそらく房中や巫術に関する内容だったからではないかと思います。
小曽戸  1985年、全出土医学文献を写真に撮って印刷した本が中国で出版されます。それが馬王堆漢墓帛書整理小組編『馬王堆漢墓帛書肆』です。『養生方』『雑療方』『胎産書』などは、本書で初めて公開されました。すぐには輸入されなかったので、私は現地で買いました。
真柳  私もです。『馬王堆漢墓帛書肆』では、前半が医学文献全15種の影印図版ページ、後半はそれぞれの釈文や注釈ページとなっています。これまで発表されていた釈文の誤りもここで明らかになりました。

武田  京都大学人文科学研究所の山田慶兒先生の共同研究会では、早くも1976年の秋に「武威医簡」の会読をすでにスタートさせ、馬王堆出土の科学書に挑みました。赤堀昭先生などが中心メンバーだったのですが、その釈文の改訂版が出版されたのは、訳注整理の最終作業を終えた直後でした。そのあとに、小曽戸先生が『五十二病方』の折りたたみ方を検討し、周囲の腐食の状況や重なりの鏡面文字などを手がかりにして新たな復元案を捻り出しました。あれは画期的な試みだったと思います。
真柳  人文研の『新発現中国科学史資料の研究・訳注篇』は、中国の釈文や注釈を踏まえたうえでの詳細な日本語の注と訳をつけた労作ですが、『馬王堆漢墓帛書肆』が出る前に編集作業を進めた点で、タイミング的には気の毒でした。古医書の研究は、新しい発見を待たなければダメということはありますね。

【「老官山」の新発見から】

武田  馬王堆医書のあと、1974年に江陵張家山漢墓からも『脈書』『引書』や『算数書』が発見されます。しかし、その写真版や釈文が全部発表されるのには15年以上かかりました。ところが、最近は情報公開されるスピードが早くなりました。冒頭で触れた、老官山漢墓についても、近々公表の準備が進んでいると聞いています。
  経穴人形について、真柳先生は近刊の『黄帝医籍研究』でも少し論及されていますね。
真柳  経脈説に対して、恐ろしく貴重な価値がある発見です。1992年に綿陽双包山漢墓から経脈漆人形が出土しましたが、今回、老官山で発見された人形は経脈説の発展具合から、それより新しいものではないかと考えています。今のところは不鮮明な写真しか公開されていないのですが、さまざまな経脈があり、色分けされています。
武田  4基の墓から出土したのは、920枚余りの竹簡と50枚の木牘です。簡牘に記録された文字は約2万字で、『五色脈診』『敝昔医論』『脈死候』『六十病方』『尺簡』『病源』『経脈書』『諸病症候』『脈数』という9部の医書に分類できるといわれています。これらが、扁鵲学派の医書なのかどうかは分かりません。しかし、『黄帝内経』の編纂よりも前に遡って具体的な様相を探ることができるようになったのですから、すごいことですね。

 

 

つづきは、雑誌「医道の日本2016年7月号」でお読みください。