鍼灸と漢方の連携ケース
北里大学東洋医学総合研究所

【漢方と鍼灸の復興運動のなかで設立】

かつては武家屋敷が立ち並んだ神楽坂。その情緒あふれる街並みを味わいながら、漢方の名医、浅田宗伯の医院跡を訪ねてみると、今は子どもたちが駆け回る児童遊園となっており、昔の面影はない。

浅田がこの牛込横寺町で開業したのは、1871(明治4)年、57歳のときのこと。当時の盛況ぶりについて、『神楽坂界隈の変遷(江戸期から大正期まで)』(東京都新宿区立図書館、1970年)では、こう記されている。

「明治の世となって同4年、公職をやめて牛込横手町に隠居したが、名声をしたって診療を乞う者多く、清国公使や朝鮮公使などもしばしば宗伯の診療を求めたという。明治12年、皇太子御誕生の節宗伯は宮中に伺候したが、それ以降尚薬として年棒千円を賜うにいたった」

ところが、時代の逆風が浅田を襲う。1874(明治7)年、明治政府は医療行政の基本となる「医制」を布達。近代的医療制度が東京府、京都府、大阪府から試験的に実施されることなった。浅田は、山田業広や森立之とともに、漢方復興運動を起こすが、浅田が1894(明治27)年に没すると、終焉を迎えることになる。

それでも伝統が消えることはない。漢方医学は民間で生き続け、1910(明治43)年には和田啓十郎が『医界之鉄椎』を、1927(昭和2)年には湯本求真が『皇漢医学』を刊行。明治の終わり頃から昭和初期にかけて、漢方と鍼灸を復活させようという機運が高まっていく。
復興の中心となったのが、鍼灸では柳谷素霊であり、漢方では和田啓十郎の弟子にあたる大塚敬節である。大塚は1972(昭和47)年、最初の漢方医学の総合的な研究機関として、北里大学東洋医学総合研究所を設立し、初代所長に就任。初代鍼灸部長には、柳谷の弟子である岡部素道が着任した。

以後、現在にいたるまで、北里大学東洋医学総合研究所では、漢方と鍼灸の両面からの統合的なアプローチが行われ続けている。

【北里方式の鍼灸治療と生薬の質にこだわった漢方治療】

「日本の漢方の礎となる先生方が集まって、診療をしていたわけですから、まさに伝統医療の一大拠点だったと思います」

当時にそう思いを馳せるのは、2015年から第5代所長を務める小田口浩氏(北里大学東洋医学総合研究所所長、漢方鍼灸治療センター センター長)。現在、同研究所では、小田口氏を含めて18人の医師と6人の鍼灸師が連携して診療にあたっている。漢方と鍼灸それぞれで診療を行い、共通カルテで患者の情報を共有。現代医学的な処置が必要な場合は隣接する北里研究所病院などに紹介し、漢方診療は医師が、鍼灸診療は医師と鍼灸師が担当している。

「鍼灸診療部にも常に医師がいるようにシフトを組んでいるので、診療の際に困ったことがあったり、医学的な判断が必要であったりする場合には、すぐに医師と話ができます。カンファレンスも医師と鍼灸師が一緒に行っています」

鍼灸の方法は、初代鍼灸診療部長である岡部素道の経絡治療を基にした「北里方式経絡治療」が実践されている。すべての患者に適用する共通基本穴に加え、脈診で決定された肝虚や肺虚などの証に応じた本治法の経穴、さらに患者の症状に応じて追加された標治法の経穴を合わせて、全身表裏の経穴に15分ずつ置鍼を行うというものだ。ベースが北里方式で統一されているため、施術者ごとに差が出にくく、漢方診療との連携がスムーズにいきやすい。

 

つづきは、雑誌「医道の日本2019年12月号」でお読みください。

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