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『漫画ハリ入門』からの学び。原作者 池田政一先生へのインタビュー企画第2段!

公開日:2023年2月2日

これまでに数多くの書籍を執筆している池田政一先生。経絡治療学会理事・学術部長も務めていた池田先生原作のマンガ「漫画ハリ入門」は、治療家をはじめ患者さんにも読み続けられ、2007年の刊行から重版を重ねロングセラーとなっています。

主人公の新人鍼灸師である小田切正之が鍼灸師として、また人として成長していくストーリーに引き込まれながら読み進めるうちに、難しいと敬遠しがちな経絡治療について学ぶことができます。

「治療代を考えることなく、高ぶることなく、患者と同じ目線に立って治療する。ただ願うとすれば古典鍼灸術を受け継ぎ、次世代に伝えることである。本書を通じて、経絡治療とは何か、治療家とはどう生きるべきかを考えていただければ幸いである」(原作者あとがきより)。読んだ後には、治療家としての生き方も深く考えさせられるような1冊です。

この記事では、新春インタビュー企画の第1弾に続き、本マンガの原作者である池田政一先生にインタビューしました!

「漫画ハリ入門」について

古典鍼灸術復興の歴史を背景としています。原作者の池田政一先生が参考書物から知り得た情報を元に、実在していた先生方(柳谷素霊、岡部素道、井上理恵、竹山晋一郎、八木下勝之助)も登場。古典鍼灸術のことも知ることができます。

昭和40年、麻雀に明け暮れて不遇な日々を送っていた青年・小田切正之は、ある日激しい腹痛を起こし、鍼灸師・津田良伯と出会います。その治療効果に衝撃を受け「鍼灸を教えて下さい!」という小田切に、津田はしぶしぶ弟子入りを認めることに。

本書に登場する患者は、そのやりとりも含めて、すべて原作者の池田先生が出会った実際の患者さんです。

新人鍼灸師・小田切の奮闘を通して経絡治療が一から身につく、本格ストーリーマンガです。これから鍼灸師を目指す人はもちろん、経絡治療を修得したいベテラン鍼灸師まで楽しく学ぶことができる内容です。

経絡治療について知りたい方はもちろん、多くの治療家に読んでいただきたい一冊です。

池田政一先生のご紹介

 

1945年、愛媛県生まれ。1968年、明治鍼灸専門学校卒業。鍼灸は池田太喜男師に、漢方薬は荒木性次師に師事。鍼灸と漢方薬の理論と臨床の一致をライフワークとして研究を続け、国内外で講演活動を続けるとともに、多くの内弟子を育ててきた。元経絡治療学会理事・学術部長、経絡治療学会愛媛部会長、漢方鍼医会顧問、漢方陰陽会会長。漢方薬専門店を併設した鍼灸治療院「池田小泉治療院」(愛媛県今治市小泉)院長。

『経穴主治症総覧』『漢方主治症総覧』『図解鍼灸医学入門』『古典ハンドブックシリーズ(全五巻)』『伝統鍼灸治療法』『蔵珍要篇』『臨床に生かす 古典の学び方(上)』『漫画ハリ入門』(以上、医道の日本社)など著書多数。

池田政一先生にインタビューしました!

――本書を出版された経緯、漫画という表現方法を選ばれた経緯をお聞かせください。

池田 『漫画はり入門』の奥付を見ると初版が2007年ですね。ですから2006年のいつ頃かに、医道の日本社から、当時の東京支社長であった山口泰宏氏ら3人の方が私の治療院がある今治まで来られました。

来られる前に『漫画はり入門』の企画を電話で聞いたような記憶があります。山口氏から「漫画で古典鍼灸治療法を啓蒙するような本ができないか」という提案だったと記憶しています。

今の若い人は漫画だと読んでくれるのでは、というのが医道の日本社からの意見でした。この企画は、その思惑どおり、多くの人が読んでくれていると思います。余談ですが、書籍『古典ハンドブックシリーズ』も山口氏の発案でした。それもいまだに多くの人に読んでもらっています。山口氏は、分かりにくい古典鍼灸治療法を、若い人たちに知ってもらうためにはどうするか、という思いを常に持っていたのだと思います。

治療院の隣は居酒屋なので、来られた3人と、お酒を飲みながらいろいろお話しして楽しい一夜でした。余談ですが、私はお酒はあまり飲めません。もっとも酔っ払ったのは誰かいいませんが、ホテルに帰ってから、部屋の中にキーを置いて、下着のまま出たためにちょっとした騒動があったようです。

気持ちよく飲みながら話をしているうちに漫画の構想がまとまりました。恐らく30分くらいでまとまったと思います。そうして翌日、脚本を書きました。漫画家さんは鍼灸のことは知らないはずだから、図や写真やト書きも入れてすぐに書き上げたと記憶しています。もちろん清書したから1ヶ月以上はかかったと思います。

――原作に込めた思いを教えてください。

池田 内容は世を拗ねて生きている鍼灸師の所へ若い人が入門する、という設定です。若い人は何も知らなかったけど、自分の身体を治してくれたために一途に鍼灸の道に入っていったわけです。

この老先生は、市井に隠れて生きているけど、鍼灸治療に関しては名人とでもいう人で、地域の貧しい人たちを助けている。これは私が密かに希望している生き方でもあります。実際の生き方とは違いますが、私は名利に囚われることなく、常に隠遁すること、あるいは出家を希望する気持ちが根底にあります。

入門した若い人の勉強していく状態は、やはり私の若い頃の姿です。なお、本書に出てくる病人はすべて私が若い頃に治した人たちです。

「漫画はり入門」は患者さん達も読んでくれました。その中に中学生がいました。その子は「将来は鍼灸をやろうと思う」といっていました。現在、その子は大学に行っています。そこを卒業すると鍼灸学校に入るのかもしれません。縁あって鍼灸界に身を置くことになった人は、一途にその道を究められることです。それを願って原作を執筆しました。

鍼灸はアカデミックな世界ではありません。世間から隠れた存在です。しかし、鍼灸治療法を極めれば多くの病人を治すことができるのです。そうして、それを後世に伝えていくことができれば、いつか鍼灸が世間から賞賛されるのではないかと思います。ただし、鍼灸で病気を治すのは容易なことではありません。鍼で突き刺し、もぐさで火傷させて病気を治すわけですから。それでも一人でも多くの病人が治れば、その人達が証人となって鍼灸術が伝えられていくことでしょう。

――経絡治療を習得するにはどうすればいいでしょうか?

経絡治療を学びたければ経絡治療学会、東洋はり医学会、漢方鍼医学会、古典鍼灸研究会など、伝統的な鍼灸治療を勉強している会に入会して学ぶのが普通ですね。習得するには、古典的な鍼灸治療を実践している先生のところへ弟子入りして学ぶのが、もっとも良い方法だと思います。

私の治療院は、その日の食費にも困っていた当時から弟子がいました。独立開業してから45年ほどになりますが、その間、多くの弟子が来ました。また多くの人が漢方池田塾(私塾)に来ました。鍼灸師、薬剤師、医師など。この塾も50年ほど続いています。

見学者もすべて受け入れてきました。それもこれも1人でも多くの人が、漢方薬の使い方や鍼灸の技術を習得し、伝統医術を後世に伝えて欲しいと願ったからです。

その後の弟子のことですか?いろいろですね。生死不明な者が多いですね。年賀状など来ないですから。破門した者や、私より偉くなってしまった者もいます。もちろん、今も交流している者もいます。

私は入門してくる内弟子にも、池田塾に来る外弟子にも「私を神様扱いしてもあなたたちの技術が上がるわけではないから、私を崇め奉るようなことではだめですよ」とよく言います。そうして、私自身は何もかも開けっぴろげで、人徳のない様を弟子の前でも繰り広げます。だから弟子に来た人たちも気楽に辞めていき、気楽に生活しているのでしょう。

――経絡治療を学ぶ心構えについて教えてください。

池田 経絡治療だけでなく、鍼灸師として大切なことを以下に列記します。

①治療家として温かい優しい手を創ること。この手は気を出せる手であり気を感じる手でもある。これについても師匠について学ぶべきである。

②痛くない鍼、熱いけど気持ちの良い施灸ができるように修行すること。

③患者にはいろいろな考え方を持った人が来る。したがって、人間を磨きキャパシティーを広くして、どのような患者が来ても受け入れられるだけの心を養うこと。そのためにはいろいろな書物を読むとよい。ただし、いくら懸命に治療しても治る人は治るけど、治らない人もいるから、人助けなどと大仰なことは考えないこと。

④患者と遊びに行くとかお酒を飲みに行くなどという行為は慎むべきである。つまり患者と個人的な付き合いは止めること。

⑤名利に走らないこと。肩書きが書き切れないために名刺を二枚もっている鍼灸師がいるが、私にいわせれば馬鹿なことだと。

⑥治療代金が払えない患者は無料でも治療する。ただし、現代人は「無料ほど高いものはない」という思いがあるので、半額にするなどの配慮が必要である。

⑦治療家は神様と違うから、趣味を持つこと。それでストレスを発散するとよい。お酒を飲める人は飲めばよいし、競馬、競輪が好きであれば出かけるのもよい。しかし、患者には酒が飲めないし賭け事は何も知らないという。

腹部への散鍼 一人でも多くの病人が治れば、その人達が証人となって鍼灸術が伝えられていくことでしょう(池田)

余談。
私事ですが。酒は飲めない。タバコは好き。若い頃から賭け事は何でもやりました。疲れるからいまはやりません。

1975年、アメリカで国際鍼灸学会がありました。私と医道の日本社 前社長の戸部雄一郎氏の二人は学会に顔を出さず、つねにカジノで一緒でした。会場がラスベガスだったから。あまり褒められたことではないが、人間だから仕方がない。

なお恋をするのもよいと思います。ただし、何事かを実行するというのではなく気持ちだけでもよいのです。また何に恋するか、ということもあります。片岡鶴太郎氏は椿に恋して絵を描き始めたといいます。私は今トイプードルと寝食を共にしています。

⑧学術については先のインタビューで述べたように『素問』、『霊枢』、『難経』、『傷寒論』、『金匱要略』、『神農本草経』を書き写して読めるようにし、なお大切な字句や条文は書き出す。ただし、理解不可能なところは後回しにする。臨床で経験すれば分かるようになる。

⑨そのほか後世の書物では『諸病源候論』、『甲乙経』、『明堂経』、『千金方』などを読み、そののち金元李朱医学の書物を読み、その後で明・清時代や日本の江戸時代の書物にも目を通すべきである。

余談。
こんなに勉強しなければならないと遊ぶ時間がないと言われるかもしれない。ある弟子の母親は『あなたは少し池田先生を見習いなさい。先生は治療、講演、執筆と多忙を極めているけど、子供も三人いますよ』といったと聞いた。

なお追加すると鍼灸師は心理学の本を多く読むとよい。河合隼雄、小此木啓吾等々。登校拒否に関する書物も100冊は読んだ。

――経験、勉強不足、患者の期待に添いたいという焦りなどから、局所への鍼を打ちたくなることがあります。場合により経絡治療に、局所治療などの他の治療方法も織り交ぜることをどのようにお考えになりますか?

池田 これは質問者の誤解があるかと思います。経絡治療とは、臓腑と経絡の虚実によって発生した虚実、寒熱、湿燥を四診法によって見つけ、それを経穴に施術することによって治そうとする方法です。虚実、寒熱、湿燥は人体の病理を示す言葉です。これらは組み合わさって現れるものです。以下に少し説明します。

虚熱とは津液が不足して、いわば乾燥した状態で熱が発生したもの。
実熱とは胃腸や肺に熱が多くなって停滞した状態。
虚寒とは体内の陽気が少なくなって冷えた状態。
実寒という表現はなくて陰盛といいますが、これは内臓の陽気がなくなって極めて冷えた状態。

以上のような状態に湿つまり体内の余分な水が停滞していることがあります。さらに、このような状態が五臓六腑それぞれの部位で発生する可能性があります。

肩こりを例に挙げて説明します。
肩こりを主訴として患者が来た場合。

その体格や顔貌を見て、熱が多い体質なのか寒が多い体質なのか区別します。これは熱が多い人なら少し深い刺鍼でもよいけど、寒が多い人には浅い刺鍼が必要だからです。これは脈診などによっても区別します。

次に、発症した時期、主に凝っている部位を確認。肩こりの原因を聞く。これは職業と関係する。自発痛の有無、運動痛の状態などを問い、食欲、大便、小便、睡眠、口渇の有無、冷えの有無なども問います。

次に腹診をやりますが、これは身体前面をすべて診るといった方が適切です。つまり頭部、頸部、前胸部、胸骨部分、肋骨弓の上下、腹直筋の状態、上腹部、臍の上下左右、下腹部、鼠径上部、大腿部、下腿部。

以上のような部位の浮腫の有無。硬結や陥下の有無、寒熱の状態、動悸の有無、圧痛の状態、筋の緊張状態などを診ていきます。

次に脈診をして左右六カ所の脈診部位に、どのような脈状が現れているかを診ます。同時に足の趺陽と少陰の脈も診ます。

以上のような診察によって、体質、過去の病気、現在の病気などを推測して問診し、いずれの経絡を治療するかを決定します。

切診(脈診)

肩こりは膀胱経、胃経、大腸経、三焦経、胆経など多くの陽経が関係します。その中の何経の流れている部位が最も凝るのかを確認します。

そうして、先に診察して分かっているはずですが、いずれの陰経の虚によって肩こりが発生しているのか考えます。また寒熱も区別します。

たとえば肝経の虚によって胆経や三焦経が凝っている場合もあるし、腎経の虚によって膀胱経や小腸経が虚や実になっていることもあるのです。その肝経や腎経の虚で熱が多いのか寒が多いのかによっても用いる経穴や刺鍼の程度が変わってきます。

治療は陰経を補ってから陽経も治療するのですが、患部に対する治療は軽く行います。たとえば頸が痛くて振り向けないといえば、頸を振り向けたときにもっとも痛む部位を見つけ、その部に刺鍼してもよいのですが、その前に陰経を補い、頸を流れている陽経の末端に刺鍼します。例えば小腸経なら後溪に刺鍼する。大腸経の凝りなら合谷に刺すというように。

次に患部を全く治療しないのは患者も不満でしょうから肩も触ります。しかし、むかしから「肩は皮を刺しても身を刺すな」といわれているように、極めて浅い刺鍼でよいのです。これを肩だけ治療すると必ず悪化します。また鍼を深く刺せば必ず悪化します。また指圧、按摩、マッサージ、カイロプラクティックなどで悪化することがあります。

もちろん、肩の筋肉が凄く硬い人がいます。これは按摩の受けすぎです。このような人の肩には30番鍼くらいで出血するくらい刺すが必要があります。このような人は多くはいません。

以上のように経絡治療は局所も経絡の流れを考えて調整する治療方法なのです。

また、肩こりなのに、そんなに詳しく診察するのかと思うかもしれませんが、肩こりを訴える裏側には高血圧、便秘、胃が悪い、胆嚢が悪いなどの病気が隠れていることが多いのです。

詳しく診察することによって患者の信頼を得ることもあるのです。なぜなら現代の医師は腹部など診察しませんし、脈も診ないし聴診器を当てる先生も極めて少ないようです。「こんなに丁寧に診てくれるのか」といった患者がいました。

患者は肩こりだから肩だけ治療してくれると思って来ることがあります。そのようなときでも腹診、脈診、問診などを丁寧に行って治療すれば、鍼灸を見直してくれるのです。最初、ぞんざいな感じで「おい肩こりを治してくれ」といって入ってきた人でも、帰りは丁寧な物言いに変わってくる、そういうものです。

――鍼灸と漢方薬の理論と臨床の一致を一生の研究テーマとお聞きしましたが、具体的に教えていただけますか?

池田 第1弾のインタビューでいったように、私は兄に脈を診てもらってから脈診の虜になった。それで脈診の練習をしたのだけど、鍼灸学校の教科書である『漢方概論』や長浜善雄先生の『東洋医学概説』などを読んで、鍼灸と漢方薬はともに東洋医学だと知りました。しかし、鍼灸学校の一年生の終わりころから参加していた漢方研究会では、鍼灸と漢方薬は別理論の治療法だと言われていました。

書物の上でいえば『素問』、『霊枢』、『難経』と『傷寒論』、『金匱要略』は別理論だということです。これは江戸時代の古方家が『傷寒論』と『金匱要略』を絶対視していたための影響だと思います。書かれた地域が違うとはいえ、同じ中国で書かれた書物だから、交流がなかったとは考えられない。それは中国の歴史をみれば分かるはずです。

『素問』などは春秋戦国時代に成立したと言われています。『傷寒論』と『金匱要略』は西暦200年頃に書かれました。『傷寒論・金匱要略』を書いた張仲景は『素問』などを読んでいました。

『傷寒論』の序文にも「素問、九巻(霊枢)、八十一難(難経)を参考にした」と書かれているのです。だから私も『傷寒論』と『金匱要略』を読むためには『素問』なども読む必要があると思ったわけです。要するに鍼灸と漢方薬の理論と臨床の一致を目指したわけです。後年になって知ったのですが、経絡治療家の中にも「漢方薬と鍼灸は別物だ」と公言している方もいました。

鍼灸学校時代、『傷寒論』と『金匱要略』を理解するために『素問』等の書物を参考にして勉強している先生がいないか、いろいろな人に尋ねていたら、それは医師の龍野一雄先生だという。そうして龍野先生の師匠は荒木性次先生だという。

当時(昭和40年前後)、荒木先生は傷寒・金匱研究の第一人者だと、誰もが認めていたのです。その先生の門に入りたいと熱望したものです。荒木先生は大塚敬節先生とともに湯本求真先生の門に入っておられたといいます。これは昭和の初め頃のこと。

ところが幸運は近くにありました。私が参加している漢方勉強会に小寺敏子先生をお招きして『素問』の素読をお教え頂いていたのですが、小寺先生は荒木性次先生の門下生だというのです。そうして、荒木先生が新たに門下生を募集しているから池田さんも行かれますかと声をかけて頂きました。

小寺先生は私を荒木先生の塾に紹介するとき易経で占ったそうです。そうして、荒木先生も易経で占って入門が許可されました。いまから50年以上もむかしの話です。

余談ながら。
荒木性次先生は漢方を教えるために朴庵(荒木先生の号)塾を始められました。昭和30年頃のことです。そのとき多くの人が入門をお願いしましたが、医師の方はすべて断ったとのことです。また女性も駄目だということでした。

ところが小寺先生は女性です。それで申し込みの履歴書に「小寺敏」と書いたそうです。初回の勉強会の時、小寺先生が女性だと分かったので荒木先生は断ったそうですが、「いいえ私は男です」と言い張って居座ったために、荒木先生も根負けして入門を許したと聞いています。

小寺先生は子爵家に生まれた人で、ご母堂はジョン万次郎の孫で、昭和天皇と結婚された良子皇后とは学習院でご学友だったそうです。確かにお上品なお方でした。

小寺先生も聖心女学院を卒業した後、学習院で物理を専攻されていたそうですが、荒木先生に提出した履歴書には尋常高等小学校卒とし、経絡について勉強していると書いたそうです。そのころ小寺先生は大阪の鍼灸学校に行かれていて、私の長兄と同学だったのです。そのご縁で何かとお教え頂きました。

小寺先生と同時に荒木門下となった人に小曽戸丈夫先生が居られました。そのほかに岩宮、戸田、前田などの諸先生が居られました。

私が最初に朴庵塾に行ったとき、塾生の先輩方である小曽戸先生などが『傷寒論』の条文について荒木先生に質問し、いろいろとやりとりをされていました。そのとき各先生の話されている内容は『素問』、『霊枢』、『難経』、『傷寒論』、『金匱要略』などの条文が飛び交っていたのです。

要するに各先生は、それら古典書物の内容が頭に入っていたわけで、このことに驚嘆したことを覚えています。私もこのようになりたいと思ったものです。

復溜穴の補法

その後、私の考えている方向、つまり傷寒・金匱を読むために『素問』等を参考にする。つまり漢方薬と鍼灸の理論の一致、という方向で書かれている書物が見つかりました。江戸時代の内藤希哲が書いた『医経解惑論』と『傷寒論類編』です。これは素晴らしい書物でした。しかし、学生ですから臨床は未経験です。

鍼灸学校を卒業したころ、弟子に来いという先生が2人いました。養子に行かないかという話もありました。養子が務まるような人間ではないので、これは即座に断りました。

兄は治療院が忙しいから帰って手伝えというのです。それで条件を出しました。私は薬の販売店を出したい。その免許は薬種商販売業(現・登録販売者)というが、当時は建物を用意しないと試験が受けられない。それで土地と家を借金して用意したい。だから資金を銀行から借りられるようにしてくれ、と要望しました。

土地と家を手に入れ、試験も合格して薬店を始めましたが、当時は開店休業です。というのも、終日、兄の治療院で働いていたからです。何しろ1日120人くらい患者が来るわけです。私は小児鍼をやらされましたが、これはすごく役に立ちました。

兄の治療院では10年ほど無給で働きました。その間、日曜日や祭日または夜に漢方相談をして生計を立てていました。甥や姪に渡すお年玉にも事欠く始末でしたが、何しろ自分の目的を達成するためですから、何の不満もありませんでした。勉強一途といえば聞こえがよいけど、確かに夜の二時より早く寝たこともないほど勉強したものです。

1ヶ月に一度は山に植物の勉強にいきました。近くに牧野富太郎博士の弟子だった人が、身体を壊したために帰郷していたのです。その人に山に連れて行ってもらい、いろいろと薬草の勉強をしたものです。

兄の治療院を辞めて、銀行から金を借りて家の前の土地を買い、そこに治療院と薬店を開設しました。いまから44年ほど前、33才のときでした。そのころ書いたのが『図解鍼灸医学入門』(医道の日本社刊)です。その2年後には『古典ハンドブックシリーズ』を書き始め40歳の時に完成しました。

今思えば無我夢中でした。研究というか勉強が楽しかったから、お金がないことなど気になりませんでした。金は天が恵んでくれると思っていました。

たとえば兄の治療院を辞めた年の暮れ(1975年)に、三女が生まれるというのに産科に支払うお金がなかったのです。ところが妻が入院している間に漢方薬相談の人が続々と来てくれて40万円ほどで手に入り、無事退院できたのでした。それ以来、何かの時は天が助けてくれると信ずるようになりました。

――池田先生ご自身の鍼灸師としての歩みをもう少し教えて頂きたいです。どうしても本書の登場人物と重ね合わせてしまいますが、池田先生はご自身をどのような鍼灸師だと思われますか?

池田 研究の目的はある程度は達せられたと思うし、愚書も思い出せないほど書きましたから、死んで50年もすれば誰かが古書店の棚から私の本を見つけて、私の考えていた方向で勉強して、伝統医術を継承してくれるのではないかと思っています。もちろん、鍼灸治療で治った人たちも鍼灸の素晴らしさを喧伝してくれることでしょう。

むかしあなたの曾祖父の方に灸をしてもらって腹痛が治った、という母親の話をしてくれた人がいました。また一貫堂森道伯と書いた薬袋を持ってきた老婦人に、これと同じ薬をくれと言われたことがあります。東京までいって喘息を治してもらったということでした。薬の名前は葛根湯加半夏でした。

内輪のことですが孫が鍼灸師になりました。看護師をしていた長女が登録販売者になって薬店を引き継いでくれます。しかし、決して孫や娘には無理はいいません。技術は一代のものですから。

孫の思うようにやればよいのです。ただし、大変でしょう。「あなたのお祖父さんは治療が上手で、よく病気を治してくれましたよ」などといわれて困惑するかもしれません。私も兄が亡くなった当時は「お兄さんは腕がよかったね」などといわれたものです。

どのような鍼灸師だと問われても答えようがありません。ただの鍼灸師で漢方を少し知っている馬鹿な年寄りです。1つ言えることは名利に興味がなく、尊大な人間は嫌いです。

「治療家として温かい優しい手を創る」鍼灸師として大切なこと

――本書を通して伝えたいことを、改めて、先生のお言葉でお聞かせいただけますか。

池田 司馬遼太郎先生の小説『坂の上の雲』に「上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂を上って行くであろう」という一節があります。

これは明治人の気質をいったものです。『坂の上の雲』の主人公というべき人は正岡子規、秋山好古、秋山真之の3人です。いずれも伊予松山の出身。

正岡子規は俳句や短歌を改革した人です。病弱でありながら、それに命をかけました。また与謝蕪村を発見した。芭蕉の「五月雨を集めてはやし最上川」よりも、蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」のほうが優れていると子規はいうのです。確かに彼が提唱した写生俳句からいえば蕪村の句は素晴らしいと思います。

秋山好古は陸軍に入り、日本の騎兵隊を育てた人です。日清戦争と日露戦争に従軍し、多大な働きをしました。日露戦争後、多くの高級軍人が勲章や爵位を貰った。秋山好古は何ももらわず、陸軍大将で退役した後、松山の私立中学の校長を6年ほど務めた。

松山の家も東京の家も借家だったという。子供達は尊敬する福沢諭吉の創設した慶応に幼稚舎から入れて、誰も軍人にはならなかった。この人は「人間の一生はただ1つの事をなせばよい」と常々いっていたそうです。弟の秋山真之は、海軍に進み、バルチック艦隊を全滅させる作戦を立てて実行した。この人もただ1つの事を成し遂げたのです。

この3人だけでなく、明治人の多くがただ1つのことに夢中になった。ある人は10カ国語も話せたし、ある人は政治に、ある人は経済に夢中になって明治の日本を支えた。いや多くの国民が貧しい中から税金を納めました。それは外国からの侵略を防ぐためでした。なにしろ国家予算の6割ほどが軍事予算だったのです。つまり明治の国民はすべて、坂の上の一朶の雲を目指して前を向いて上っていったのです。

現代の日本はどうか。金儲けが唯一のものだと考えるのは仕方ないとしても、それが昂じて政治家から庶民まで詐欺や汚職が蔓延している。あるいは親を殺し子供を殺す。人心の荒廃した時代である。このようなとき鍼灸師はいかに生きるべきか。

歴史ある東洋医学のすべてを修めることは非常な困難を伴う。しかし、その一端でも理解できて、縁ある人が来れば治療する。それでよいと思う。治療して治る人もいれば治らない人もいる。治っても驕ることなく、治らない人には心の中でお詫びをし、ひたすら臨床に明け暮れる。それでこの世との縁が切れれば死んでいけばよい。間違っても、人を助ける仕事だなどと思い上がってはいけません。

――お忙しい中、ご丁寧にご回答いただきありがとうございました。謙虚に学ぶ姿勢を貫き通す、治療家としてのあるべき姿を考えさせられました。

いかがでしたでしょうか。池田先生への新春第1弾のインタビューでは、古典、経絡治療について貴重なお話をお聞きすることができました。本インタビューでは、鍼灸師として大切なことの9点など、人としても多くのことを学んだ気持ちになりました。「漫画ハリ入門」や本記事を読んでいただいた方々を通じても、経絡治療と池田先生からのメッセージは確実に受け継がれて行くことでしょう。

池田政一先生の書籍・DVDはこちら

漫画ハリ入門 
楽しくわかる経絡治療
経穴主治症総覧
漢方主治症総覧 鍼灸師と漢方家のための薬方・薬物・鍼灸治療の解説
臨床に活かす 古典の学び方(上) 素問・霊枢・難経から
新装版 臨床家のための症例別 伝統鍼灸治療法
朝鮮の鍼法 蔵珍要編

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