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【海外で働く】日本人のマッサージ師として初めて「ジロ・ディ・イタリア」「ツール・ド・フランス」に帯同、イタリアのプロ自転車チームで13年間の活動を経て、日本で治療院を立ち上げた中野喜文先生にインタビューしました!

公開日:2025年1月22日

目次

私が競技者として自転車ロードレースに取り組んでいたことが、海外で活動するきっかけとなりました

(写真)1998年研修生として所属した、RISO SCOTTI

私はもともと、日本国内の実業団登録選手として自転車ロードレースをしていました。23歳で競技をやめましたが、鍼灸あん摩マッサージ指圧師になることは、現役時代からすでに決めていたことでもありました。
日本では自転車ロードレースはマイナーな競技ですが、ヨーロッパではサッカーに匹敵するほどの人気があります。

海外の専門誌を通じて、欧州のプロチームにはマッサー(トレーナー)が存在し、過酷な競技を行う選手を支える重要な役割を担っていることを知っていました。
施術家の道に進んだ後も、私は欧州で活動する日本の自転車競技関係者とのつながりを大切にしていました。これは、競技者としての経験を施術家としても活かしたいという思いがあったからです。当時、日本の一部の実業団チームは欧州遠征を活発にしており、そうした人脈から、私もトレーナーとして帯同するチャンスをいただきました。イタリアに拠点を移す前にも、数回の短期渡欧経験がありました。


そんな中、イタリアのデビジョン1チーム(最上位カテゴリー)が日本人トレーナーを研修生として受け入れるという話が、日本の自転車関係者を通じて舞い込みました。研修生ということで、航空券や滞在費は自己負担という条件でしたが、これまで日本人トレーナーが関わったことのない領域での活動は、非常に価値のあるオファーだと感じました。

しかし、当時の私は所属していた治療院での活動も充実していたため、大いに悩みました。スポーツマッサージの世界に身を置くにつれ、手技療法自体の魅力や面白さを感じ、特定の競技にこだわらず、さまざまな環境で経験を積むことが成長につながるのではと思い始めていたからです。
それでも、欧州の自転車ロードレースの世界に日本人トレーナーとして挑戦する意義や、欧州のトレーナー環境への興味が私の背中を押しました。悩んだ末に、日本での活動を休止し、イタリアで挑戦する決断をしました。

私が競技者として自転車ロードレースに取り組んでいたことが、間違いなく影響しています。日本では自転車ロードレースはマイナーな競技であり、私が競技をしていた当時、ツール・ド・フランスの認知度は今ほど高くなく、自転車競技といえば競輪が中心でした。
しかし、欧州では自転車ロードレースがサッカーに並ぶ規模の人気競技です。特に当時のイタリアは、自転車競技でも圧倒的な強豪国で、世界屈指のチームや選手を輩出していたため、トレーナーという職業の地位も確立されているだろうと想像していました。
そのため、そうした環境に関わるチャンスを大切にしたいという思いがありました。逆に言えば、こうした知識がなければ、海外で働くという発想自体、私にはなかったと思いますし、このようなお話をいただくことはなかったでしょう。

(写真)チームカーでコースを先回りし補給食を渡す。自転車競技のスタッフは、手技療法のみでなく仕事は多岐に渡る。
(写真)無線機を使い、TVインタビューやドーピングコントロールの有無などをの状況を監督カーに伝える、このような役割が出来るのようになったのは渡欧後4〜5年後

トップカテゴリーの自転車チームには、複数人のトレーナーが所属しています。ツール・ド・フランスのようなステージレースでは、長時間にわたるレースが連日続くため、移動や準備に多くの時間を取られるのです。そのため、業務は施術だけにとどまらず、限られた時間内でさまざまな作業を効率的に行う必要があります。
レース中は、現場の状況が刻々と変化します。突発的な事象に迅速・的確に対応するため、監督、コーチ、ドクターが無線機を使い、密に連携しながら業務を遂行します。こうした現場では、高いレベルでの経験値や判断力、そしてマルチタスク能力が求められました。


私にとって最初の大きな課題は、語学の壁でした。言葉が通じないと、現場で他のスタッフと連携を取ることができません。海外1年目は、この言葉の障壁が大きなハードルとなりました。

一方、施術業務においては、欧州ではオイルマッサージが主流だったため、現地で早急にその技術を習得する必要がありました。ただ、施術自体の経験はすでに日本国内であったため、日本式のドライマッサージの技術や知識を応用することで、比較的早期に現場に対応できたと思います。

また、状況に応じて日本のドライマッサージ施術も行っていましたが、これが選手に受け入れられ、言葉が十分に話せない中でも「手技」を通じたコミュニケーションで、違和感部分に適切に「手が届く」という評価をいただいていました。
ただし、所属していたチームが小規模だったこともあり、高いレベルの施術技術を求められる環境ではありませんでした。そのため、技術向上における環境面の物足りなさを感じていたのも事実です。

まず、言語力をつけることが何より大切でした。コミュニケーションが取れなければ、刻々と状況が変わるレース現場でチームスタッフ同士の密な連携に参加することは不可能です。1年目の私は研修生という立場だったため許される側面もありましたが、この課題を克服しない限り正規に採用されることは絶対無いと感じていました。よってなにより言語の習得が最優先の課題でした。

日々の仕事や生活の中で、四六時中イタリア語に囲まれて過ごす環境は、ハードではあったものの生きた言葉を早期に身につけるには良い環境だったと思います。失敗は大小さまざまにありましたが、二度同じ失敗をしないことを心に刻み、面倒な作業や手の汚れる作業を率先して行うことで、少しでも同僚の負担を軽減できればと考えていました。言葉の上達とともに、少しずつチーム内に溶け込み、また選手から簡単な問診なども行えるようになっていきました。

(写真|渡欧2年目1999年)渡欧して数年間、施術以外のスキルを磨くことに多くの時間を費やしましたが、施術の時間はとても貴重でした。日本独自のドライマッサージは現地では珍しい存在でしたが、選手たちには好評で受け入れられました。また、オイルマッサージではあまり行われない横向きでの施術は注目されました。

しかし、ここで新たな悩みも生じました。日本で鍼灸あん摩マッサージ指圧師として切磋琢磨する環境から一旦距離を置いてしまった事です。施術以外の業務、つまりは語学習得や、海外で生きていくためのスキルを習得することがその時の一番の課題になったことで、本業である施術に関する学びに時間を使うことが出来ない時期が生じたことです。これは当時の日本の元同僚たちがスキルを身につけて実績を積んでいく時期と重なっており、「遅れを取ってしまった」「道を踏み誤った」という大げさに言えば「挫折感」のような気持ちとなり、当時の私にとって決して小さくない悩みとなっていきました。

私がイタリアに渡った初年度は研修生として活動し、ビザなしで8ヶ月間滞在しました。渡欧の話をいただいたのがわずか2週間前だったため、事前に準備する時間はありませんでした。イタリアでは連続3ヶ月までの滞在はビザ無しで可能でしたが、当時のヨーロッパではシェンゲン協定が無く、年間の総滞在日数に関する厳格なルールがなかったため、3ヶ月の滞在後に一度出国すれば、再び入国・滞在を繰り返すことが可能でした。幸いレース帯同でイタリア国外、特に東欧に赴いたことで、パスポート上のスタンプが出入国証明となり問題なく滞在を続けることができました。

2年目に所属したチームでは、業務委託契約を交わし、給与支払いも発生したため、労働許可証(滞在許可証を兼ねる)が必要となりました。しかし労働許可証の取得は現実的に不可能です。よって学生ビザを取得しました。学生ビザは条件付きで週20時間までの労働が認められていたため、労働対価をもらうことも可能でした。(実際の労働時間はあえて伏せます)。私の場合、所属先のチームに、日本のイタリア大使館向けの「自転車プロチームのサポート活動は日本では学べない分野であり、チームで日本人に技術を教育する」という推薦状の発行を依頼。この推薦状により、1年間の学生ビザを取得することができました。当時は、国の教育機関以外の推薦状でも学生ビザが発行されることがあり、例えば「イタリアンレストランのオーナーが日本人に技術を教える」という内容でも認められていました。ただし、現在においては不可能な手段です。学生ビザは公的な教育機関の入学をもってのみしか発行されなくなったと聞いています。

その後、ファッサ・ボルトロに移籍し、1年ごとに学生ビザをイタリア現地で更新しましたが、学生ビザの更新は4年間が限度であったため、労働ビザへの切り替えが必要になりました。しかし、学生ビザでの4年間でイタリア国家が認める教育機関の修了証や国家資格を取得していなかったため、本来であれば労働ビザへの切り替えは不可能でした。これに対してファッサ・ボルトロ側が所轄の警察署に嘆願書を提出し、特別に労働ビザへの変更が認められました。これは、個人の努力ではなく、雇い主側のサポートがあってこそ可能となった手続きでした。
また、イタリアでは外国人労働者を正規雇用する会社には労働監督局への就労報告義務があり、雇い主にとって負担になる案件でしたが、ファッサ・ボルトロ社は建設会社で、多くの外国人を雇っていたので、私の雇用においてもそのシステムを利用してました。

(写真)6年間所属したファッサ・ボルトロ、滞在や就労の課題を克服するには、個人の力だけではどうにもならず、雇い主からのサポートが鍵だった。

リクイガスに移籍した際は、雇用契約ではなく業務委託契約であったため、労働ビザを、雇用ビザからフリーランスビザへ切り替えが必要になりました。しかし、前述の通りイタリアの教育機関の修了証や国家資格を持たないため、手続きは難航しました。
その際、外国人労働者を支援するNPO法人にも赴き手続きを進めましたが、申請や受理には非常に多くの時間と手間がかかり不確定要素も多く、業務にも支障が出るおそれも出てきました。リクイガスのGMが所轄の警察署に自転車競技の熱狂的なファンがいるという情報を得て、そのコネクションを利用し、アドバイスを受けながら手続きを完了させました。これもイタリアらしい「コネ社会」の一例です。いずれにせよ、その組織から自分を必要とされない限りは現地の協力者を得ることは不可能であると痛感した思い出です。

日本に拠点を移した後も海外活動は年間100日ほど継続しましたが、シェンゲン協定に基づき、滞在日数を調整し、労働への対価の支払いも雇用契約ではなく、業務委託契約としていました。報酬は源泉税など引かれず日本で着金をし、日本で申告をしていました。

海外における滞在をクリアするうえで、一番真っ当な手法が、その国が定める教育機関を終了する、もしくは国家資格を所有する、といった公的機関の証明書を取得をすることだと思います。それをもってその国においての労働ビザの発給は原則認められると思います。この世界においては、その資格は理学療法士に集約されていると思います。(欧州において理学療法士は開業権が認められています)

決して自分だけの行動力のみで成長することは不可能であり、出会いや人脈を大切に繋げていくことが大切です。

海外で仕事をすることは、私の第一の目標ではなかったことは先に述べたとおりですが、自転車競技をしていた者として、ヨーロッパが本場であるという知識は持ち合わせていました。海外を行き来する日本の自転車競技関係者に、ヨーロッパのマッサージやトレーナー事情について尋ねるなど、常に情報のアンテナを張っていました。もしそのような機会があるのであれば、自分に依頼が来るように、自転車競技関係者との人脈を大切にしていました。

また、当時は海外を行き来する日本の実業団チームの合宿所に赴き、施術を行う活動もしていました。その分野において経験や知識のある方々からの情報は非常に有益なものだからです。この仕事は決して自分だけの行動力のみで成長することは不可能であり、出会いや人脈を大切に繋げていくことが大切です。そのような行動の末に海外に行くチャンスや自分の目標とする環境に身を置くことが出来るのだと思います。

(写真)初の海外は1996年ジュニア世界選手権帯同。日本の自転車競技関係者との繋がりのおかげで、とても貴重な経験をさせていただいた。

欧州の自転車チームには、これまで年間契約で計6チームに所属しました。1年目に研修生として所属したチームは、シーズン終了後に資金難で解散となりました。私も帰国する予定でしたが、解散に伴い移籍する選手の一人から「来年一緒に来るか?」と声をかけられ、現地で転職し、イタリアに留まることになりました。
その選手はチームのエースであり、私の日本式のスポーツマッサージやハードワークする姿勢を評価してくれていたようです。しかも、研修生ではなく給与が出るという話です。声をかけてもらえたことは光栄で感謝の気持ちでいっぱいでしたが、現地採用になることには一抹の不安がありました。特にトラブルが起きた際、頼れる日本人の身元引受人がいなくなるからです。


その不安は的中し、翌年にはさまざまなトラブルに自分一人で対応しなければなりませんでした。イタリア南部エリアのチームは運営基盤が脆弱で、滞在許可や住居手配などのケアも十分ではなく、自分で行う必要がありました。さらに最も悩まされたのは、給料の未払い問題です。大小さまざまな課題やネガティブな問題が発生し、イタリア生活2年目はまさに試練の年となりました。一方で、この年にイタリア語が一気に上達するという「副作用」も生まれました(笑)。
また、前年同様にチームは弱小だったため、技術向上の環境として物足りなさを感じていました。多くの悩みや疑問がありつつも、まじめに仕事や課題に向き合う日本人の姿勢は現地の自転車関係者にも良い印象を与えたようで、結果として見れば、この年に腐らず、ストレスに耐えたことは、その後の進路に大きく影響しています。


劣悪な環境から抜け出すために進路を模索していたところ、ファッサ・ボルトロの新規立ち上げスタッフとして、イタリア自転車界の重鎮ジャンカルロ・フェレッティGMから直接オファーが届きました。オファーのきっかけは、現場で出会う競技関係者に現状について相談していたことが、様々な人を通じて彼の耳に入ったこと、そして渡欧1年目に偶然同じホテルで頸を痛めていたフェレッティ氏に施術をしたという偶発的であり運命的な出会いがあったからです。(当時の私は彼を業界の重鎮とは理解していなかった)
イタリアに渡って3年目、ようやくトップクラスのチームに所属し、能力の高い施術家と共に働けるという理想的な環境に恵まれました。海外における私の施術家としての本当のスタートラインは、渡欧後3年目になるこのファッサ・ボルトロへの移籍から始まったと感じていますが、ここに至るまで常に紆余曲折かつ綱渡りの連続でした。

(写真)人生の師であり恩人、ジャンカルロ・フェレッティ氏 彼の正式なオファーなしには今の人生はなかったと思う。

競技を専門とするスタッフ業務へのモチベーションの低下を感じるようになり、施術家としての活動に専念したいという気持ちが強まっていきました。

チーム世界ランキング1位を2度獲得するなど、選手の能力や運営クオリティが業界内でも極めて高いファッサ・ボルトロでの6年間で、多くのスキルを身につけることができました。しかし、スポンサーシップの終了に伴いチームが解散し、当時イタリアで台頭しつつあった発足2年目のリクイガスに移籍しました。
リクイガスは若い首脳陣が率いる風通しの良い組織で、ファッサ・ボルトロで培った経験を、運営面の改善や施術業務のクオリティ向上に活かすことが求められました。運営や組織づくりに深く関与し、チームの中心選手の専属トレーナーとして帯同できたことは、大変意義深く貴重な経験でした。


しかし、月日が経ち、40歳を迎える頃から、自転車競技を専門とするスタッフ業務へのモチベーションの低下を感じるようになりました。施術業務以外の評価に喜びを見いだせなくなり、施術家としての活動に専念したいという気持ちが強まっていきました。スポーツ現場だけでなく、治療院という場所で幅広い方々に施術を行いたいと考えるようになったのです。
イタリアでは多くの素晴らしい指導者や同僚たちに恵まれましたが、施術家としての本質は治療院での活動にあると常々感じていました。これは、親交の深かった同僚であり尊敬するイタリア人施術家からのアドバイスが大きく影響しています。その彼自身も地元で整形外科医と連携する治療院を経営しており、自転車チームにも最新の知識や技術を落とし込んでいたのです。
また、当時、私はフリーランスとして労働許可証を取得し、プロチームと業務委託契約を結び、無期限の滞在許可証も持っていました。税金や年金も支払い、現地で永住するための基盤は整っていました。しかし、イタリアで活動を続ける中で、高額な税金負担やユーロ加盟後のイタリア経済の低迷といった現実的な問題は見過ごせない状況となり、それはイタリア自転車競技にも波及する状況でした。また治療院で施術活動を行うためには現地の理学療法資格が必要という制約もあり、日本に拠点を戻すことが最善であると判断しました。
日本に拠点を移すと同時に、専属で担当していたチェコ人選手ロマン・クロイツィゲルと共にリクイガスを離れ、カザフスタンのプロチームに移籍しました。年間80〜100日の契約で日本を拠点にしつつ、海外活動を継続するスタイルを構築し、同時に日本でも開業、日本と欧州を行き来する生活をその後6年間続けました。

(写真)2008年から2016年まで専属でケアをしたロマン・クロイツィゲル選手。専属マッサーでありながら決して甘やかすことはせず、友人でありながらも互いにプロとしての正しい距離感を尊重した。

働き方という点で言えば、イタリアでは「自分で考え、決断し、実行する」ことが重んじられていました。いわゆる主体性です。日本人は、言われたことやマニュアルを忠実に実行する能力を重視する教育を受けてきた側面があります。一方でイタリアでは、現場の状況に合わせて自ら考え、修正を加えるといった判断に価値が置かれていました。これは日本人にはなかなかない感覚かもしれません。私自身も日本で育ってきたこともあり、この点に関しては特にファッサ・ボルトロ時代に徹底して鍛えられました。
例えば、仕事で私が判断ミスを犯して結果が伴わなかったり、チームに迷惑をかけたとしても、それが自分が導き出した最善と思う判断の結果であれば、批判されることはありませんでした。一方、何も考えずに言われたことだけをやるのみで、マニュアルに従うだけの行動は「思考停止」と捉えられ、厳しく詰め寄られることもありました。


イタリア人は、同僚同士でも激しく意見を交換することがあります。一見すると主張のぶつかり合いの喧嘩にも見えますが、それは建設的なディスカッションであり、物事を改善するための前向きな行為と認識されています。日本ではこれが「空気を読まない」「現場の雰囲気を悪くする」と解釈されることもありまが、「秩序を保つ」「社会性を重んじる」といった、相手の意思を汲み取る思考とも言えるでしょう。
しかし、イタリアでは平和な空気を切り裂くように、多くの議論が現場で交わされていました。議論をするには物事の本質理解が必要であり、意見には責任が伴います。どちらの文化にも良い側面はありますが、外国の組織で仕事をするうえで、この違いをしっかり認識しておくことは重要です。

(写真)ディスカッションを経てこそ、本物の信頼関係が構築される。遠慮や尊重だけでは変わらない。苦労をしつつもアダプトしていった。

海外で施術を行う際、いくつか注意していた点の一つは人種的な違い、いわゆる骨格の違いです。例えば、脊柱に焦点を当てて説明するだけでも、日本人と外国人の骨格の違いは顕著です。個人差はありますが、骨盤の前傾や腰椎の伸展は欧州人に強い傾向があります。そのため、筋肉を緩めるポイントや鍛えるポイントにも違いが現れます。理学療法的な身体評価法を忠実に行えば理解できるポイントですが、それに付随して影響を受ける筋肉や関節を整理し理解することが重要です。
自転車競技においても、前傾姿勢で負担がかかる部位に違いが見られます。日本人にはあまり見られない症例もあるため、経験を積むことが大事ですが、なにより整形外科的な評価法や機能的評価法を用いて個体の理解に努めることが、多種多様な国籍の選手がいる環境では重要です。私自身は、最近ではケニア人の施術をする機会が増えており、この点にいおて、私のこれまでの知識やキャリアでは補えない技術不足を感じており、現在進行系の課題となっています。

(写真)郷に入っては郷に従え、ヨーロッパはオイルマッサージ文化圏

もう一つは施術文化の違いです。世界的に見ると、スポーツマッサージはオイルマッサージが主流で、日本のようなドライマッサージは少数派です。気候の違いなども、その背景にあると思いますし、また、オイルマッサージは筋肉内の疲労物質の除去など、循環器系への直接的な介入に優れていると感じます。
一方で、滑剤を使わない日本式のドライスポーツマッサージは、日本のスポーツの歴史を背景に非常に修練されたテクニックです。特に、体重や重力を効率的に利用する技術は欧州のオイルマッサージの概念とは異なります。ドライマッサージでは押圧における垂直圧が重要ですが、滑剤を使うオイルマッサージでは、この垂直圧を十分に発揮することが難しく、深部への施術には課題が残ります。
よって私も状況に合わせてヨーロッパの活動でもドライマッサージとオイルマッサージ使い分けたり、併用をしていました。
特に下肢をオイルマッサージ、上半身をドライマッサージになる傾向がありました。

習得難易度は、日本のドライマッサージの方が圧倒的に高いと、個人的には考えています。私自身、オイルマッサージを導入する際にはそれほど時間がかかりませんでしたが、海外の施術家がドライマッサージを習得するには、滑剤を使用しない軽擦法や体重利用の概念など基礎技術習得には多くのハードルが存在していると思います。
日本のスポーツ現場でもオイルマッサージの需要が高まっていると感じていますが、同時に、日本のスポーツマッサージ手法が海外のスポーツシーンで活かされる可能性を大いに感じています。

ここ8年ほどは長期出張を行わず、治療院業務や若手の育成に集約して活動してきました。現在は11名体制で治療院を運営しています。また、4年ほど前から始めた同業者向けのオイルマッサージ講習も継続的に開催しています。
近年では、後身の育成や彼らの活動先のサポートなど、年齢や立場に応じて私の役割も変化しています。今後においても、スポーツ現場からはさらに遠のく一方になるかと思っていましたが、今年は陸上競技関係とのご縁があり、日本人アスリートの個人トレーナーとして、ケニア合宿や五輪事前合宿、欧州大会への帯同など、再び現場での仕事をさせていただいています。
「やりたいことをやる」というより、いただいた仕事を一つひとつ丁寧にこなすという状況は、若い頃も今も大きく変わらないのかもしれません。しかし、次世代に引き継いでいくことが私の第一の役割だと認識しつつ、自分自身の成長のために、与えられた役割をしっかり頑張ろうと思っています。

(写真)2024年は新たな挑戦が待っていた。

力不足を教訓として課題に取り組む「姿勢」そのものこそ、若い施術家にとって求められるものですし、それこそがチャンスを与えてくれた方々への信頼に繋っていく。

プロスポーツの舞台で裏方として働くことは、治療家を目指す方々にとって魅力的に映るかもしれませんが、現実には、仕事をする「相手」や「活動場所」を自由に選べるほど簡単な業界ではありません。
まずは自分の課題に向き合い、学び続ける姿勢、そして行動力を持っていつ来るかわからないチャンスを待つしかありません。
また与えられたチャンスには、「自分が何をしたいか」ではなく、「何が求められているのか」を理解し、その視点をもってハードワークで応えることで、その活動にも継続性が生まれるでしょう。
もちろん、若いうちから全ての期待に応えることは不可能かもしれません。
しかしながら力不足を教訓として課題に取り組む「姿勢」そのものこそ、若い施術家にとって求められるものですし、それこそがチャンスを与えてくれた方々への信頼に繋っていくのだと思います。

手技療法の世界は、一生かけても学び尽くせないほど深く広いものです。課題に取り組む中で自身の成長を楽しみ、人とのつながりを大切にしてください。
そのような積み重ねが、新たな仕事やチャンスを引き寄せるでしょう。
どのような環境でも施術家としての価値を発揮し、人間力で組織に貢献できる治療家を目指してください。


プロフィール

中野喜文 先生

鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師
1998年に渡欧し、日本人のマッサージ師として初めて「ジロ・ディ・イタリア」「ツール・ド・フランス」に帯同。
以降、13年間イタリアでプロ自転車チームのマッサーとして活動、豊富な経験を持つ。
帰国後、2014年に「エンネ スポーツマッサージ治療院」を開業し、治療業務、技術講習、サイクルロードレース解説など幅広く活躍中。
株式会社ENNE代表取締役
インディバ・ジャパン社アドバイザー
日本鍼灸理療専門学校本科出身

中野先生が代表を務める治療院:
エンネ スポーツマッサージ治療院
ディエンネ北参道

(中野先生 略歴 )

【滞在国】イタリア(個人事業主として無期限の滞在許可証を取得)
【所属】プロ自転車チーム「カンティーナ・トッロ」「ファッサ・ボルトロ」「リクイガス」など
【仕事内容】プロ自転車チーム専属マッサー
【イタリア滞在年数】13年

〈渡伊されてからのご経歴〉
・1998年 イタリアのプロ自転車チームに参加。「ツール・ド・フランス」などに日本人のマッサージ師として初めて帯同
・2000年~2010年 複数のプロチームでトレーナーを担当。世界トップクラスの選手を支援
・2011年 帰国し治療業務を開始。医療機器メーカーインディバ・アクティブ・ジャパンのアドバイザーに就任
     同時に欧州のプロチームとも契約
・2014年 1月「エンネ・スポーツマッサージ治療院」を東京都千駄ヶ谷に開業
・2017年 欧州でのサイクルロードレース活動を終了し、治療院業務と人材育成に注力
・2021年 株式会社ENNEを設立し、技術講習や企業向け福利厚生事業を開始
・2023年 新ブランド「ディエンネ」立ち上げ
・2024年 陸上競技中距離選手の個人選手の帯同でバリ五輪事前合宿、ダイヤモンドリーグをサポート
     著書「スポーツオイルマッサージ」をベースボールマガジン社より刊行
    https://www.bbm-japan.com/article/detail/56010 (ベースボールマガジン社サイト)

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