中国古代思想に セルフケアの源流を探る

立教大学現代心理学部准教授 加藤千恵氏

東洋医学の起源である古代の中国では、セルフケアや養生をどのように考え、どのような実践を行ってきたのだろうか。今回の巻頭インタビューでは、古代中国の身体観・生命観を中心に研究する、立教大学現代心理学部准教授・加藤千恵氏に話を聞いた。

本来の「養生」の考え方

─東洋医学の生まれた古代中国においても、セルフケアという発想はあったのでしょうか。

加藤 近年、「健康」の文字がますます氾濫しているように見えます。古代の中国人も「今ある自分の肉体」というものに強いこだわりを持ち、不老長寿を願い、さまざまな、セルフケア的な実践を行ってきました。そして、そのような実践を「生命を養う」、つまり「養生」と呼んできました。
  現在、養生というと、健康食を食べたり、温泉に入ったりといったイメージが強いですが、古代中国において「生命を養う」実践や考え方は、それとは少し違うようです。

─養生について、どのような文献が言及していますか。

加藤 「養生」の語が早くに出てくるのは、戦国時代の思想書『荘子』養生主篇です。このなかに、庖丁(「庖」は料理人の意)が牛を解体する極意を文恵君(戦国時代の魏王)に説くというエピソードが出てきます。
   庖丁は牛の解体が得意で、まるで音楽を奏でるように手際よく解体していくんです。その庖丁が文恵君の前で料理を披露したとき、文恵君は「見事な技だ」と褒め称えました。しかし、庖丁は「これは技ではなく『道』です」と言います。庖丁は料理を始めてしばらくは、解体するときは牛の肉に目を奪われていたのですが、修行を重ねるうちに牛の姿がまったく見えなくなったというのです。
   その理由を原文では「神を以て遇いて、目を以て視ず。官知は止みて、神欲行わる」と書いています。ここでの「神」は、人間の能力を超越した自然の持つ力といった意味です。目ではなく「神」を使っているから、牛を見る必要はなく、「官知」つまり感覚器官を止めていることで、「神欲」、神が欲するように、つまり自然本来の働きで思うがままに作業できるというわけです。ここでの「自然」とは、natureというより、朝夕や季節が巡るような「おのずからそうなっている(自ら然る)」という意味です。

   この庖丁の言葉は、現代に通じる部分もあります。例えば、スポーツの領域です。技術を究めたアスリート、例えば、優れた武術家が複数人と組手をするとき、後ろにいる相手の攻撃にも瞬時に対応できるといった例があります。対象に意識を集中するのではなく、ふっとリラックス状態に入ったときに、その場の状況を完全に把握できるほどの認識に達するということが人間にはあるようです。
   石田秀実さんの『気のコスモロジー』(岩波書店)のなかでは、「脳の知」と「身体の知」とを分け、脳の知を鎮めて身体の知を呼び覚ますヒントを中国古典のなかに求めています。私たちは一生懸命意識を使って物事を考えて、脳の知をフル活用していますが、それによって、かえって人間の身体が本来持っている高い認識能力を抑え込んでいるのではないでしょうか。
   文恵君は庖丁の話を聞いて、「養生を得たり」と言います。現代の我々はこの話を聞いても、健康法などの話だとは思いません。しかし、古代中国において、養生とはもともと「意識」や「私心」を忘れて、大いなる自然の営みに身を任せることなのです。
   現代ではさまざまなセルフケア方法がありますが、その源流には人間の自然治癒力を促して、自然のままの健康な状態に帰ろうとするという、古来の「養生」の考え方が息づいているように思います。

いかに身体の自然を思い出すか ─「盗」のすすめ

─身体の本来の力を目覚めさせるために、どのような方法や考え方があったのでしょうか。

加藤 『荘子』の書かれた春秋戦国時代以降も、身体の持つ本来の力を目覚めさせるためにはどうすればよいのかという方法や考え方が、さまざまな書物に出てきます。後の時代までも、繰り返し書かれ続けるということは、古代中国の人々にとっても難しいことだったに違いありません。
   近代科学は、自我や意識を観察対象から切り離して客観的に分析するという、意識をフル活用する態度が特徴ですよね。古代中国の人々は近代科学を知らないのだから、すぐに意識を捨てられるかと思いきや、なかなかできないわけですから、人間の脳には普遍的に西洋的な意識の営みを作り出してしまう特性があるのもしれません。
  そこで、「天地から盗みなさい」ということが文献のなかでよく説かれています。 『列子』天瑞篇の中で、富豪の国氏と貧しい向氏という二人の対話が出てきます。貧しい向氏はどうすれば金持ちになれるのか、国氏を訪ねて斉国に赴きます。「どうすれば金持ちになれるのか」という向氏の問いに、国氏は「ただうまく盗むだけです」と言います。向氏はこの答えを真に受けて、人の家に忍び込んで盗みを働き捕まってしまいます。国氏は人の持ち物を盗むのではなく、天地、つまり自然の持つ生産力を利用し、穀物や肉や魚を得ているだけで、自分の力でつくりだした富などないと言いたかったわけです。

  この話には続きがありまして、その後、向氏は東郭先生という人を訪ねて、「盗む」ということはどういうことなのか尋ねます。すると、東郭は「お前の身体だって自然から盗んだものだ」と言います。陰と陽が和合するという自然界の摂理に従って私たちは生まれ、自然のなかにあるさまざまな食べ物を食べて、私たちの身体はできています。ということは、自然と身体は一体であって離れることができないものです。健康もまた自然から「盗んで」得ることができるというわけですね。
  例えば、現代の美容で「アンチエイジング」がよく言われ、肌などにいろいろなケアを施しますが、古代の人々は自分一人だけ、あるいは自身の一部だけをどうにかしようという発想では大した得にはならないという答えを得ていたようで、もっと大きな力を利用したいと願っていたようです。
   おそらく唐代にまとまったと考えられている道教の経典『黄帝陰符経』にも、「天地は万物の盗、万物は人の盗、人は万物の盗」と、やはり「盗む」という表現が出てきます。つまり、天地と万物と人が「盗み合っている」のがいい状態だと言っています。また、その具体例として、「食其時、百骸理」(時節に合ったものを食べると、身体は順調に働く)と述べています。

─なぜ「盗む」というネガティブな表現を使うのでしょうか。

加藤 先ほどの『列子』には、「盗みの道を修めよ」といった表現も出てきます。盗みは一概にネガティブな行為とはいえず、行い方によっては「道」という至高の境地に到達し得ると考えられていたのでしょう。
   「もらう」や「受ける」という表現ではなく、「盗む」という強い表現をとるのは、自然にかなった生活習慣や健康というものが、漫然と生活しているだけでは得難く、積極的に獲得しに行かなければならないものだという認識が古代の人々にもあったからかもしれません。

 

つづきは、雑誌「医道の日本2014年11月号」でお読みください。