触れる 語る シリーズ2 第2回

形井秀一氏 ゲスト 馬場道敬氏 (馬場回生堂鍼灸療院院長)

  朝から晩まで働いていた鍼灸師の父・馬場白光氏の厳格な背中を見て育った道敬氏。そんな父と同じ職を選び、父の師である岡部素道氏の弟子となってからは、師と同じく脈診を第一とし、師と同じやわらかい指を目指した。その指でつぼの張り具合やくぼみを、脈の変化を触知する。多くを語らなかった父や師から学んだことを、形井氏との対談で訥々と吐露する。

【鍼灸師の父親はいつも働いていた】

形井  馬場先生が岡部素道先生*1の弟子になったのが22歳のときだそうですね。でも4、5歳のころには岡部先生にお会いしているとお聞きしましたが。
馬場  はい。1959(昭和34)年まで久留米にいたのですが、岡部先生には久留米でお会いしています。1951(昭和26年)に自宅で撮影した写真にも写っています。父も岡部先生の弟子でした。そこで経絡治療を九州にももっと知らせようと、岡部先生の許可を得て1941(昭和16)年に講習会を開催しました。以来、岡部先生は時々こちらへ来られていたのです。
形井  馬場先生は、4、5歳の幼少期に、そのように岡部先生に会っていたけれども、そんなには早くから鍼灸の道に進もうと思っていらしたわけではなかったそうですね。

 

*1 岡部素道(おかべ・そどう) 1907−1984。富山県生まれ。1931年、東京鍼灸医学校入学。1936年に日本大学専門部宗教科専攻科卒業。1939年、新人弥生会(現・経絡治療学会)を発足、会長となる。1950年、日本鍼灸師会理事、のちに会長。北里研究所付属東洋医学総合研究所鍼灸部長。

馬場  親が厳しかったからね。食事は正座が当たり前でしたし、父と会話をするときは敬語でした。中学1年生のとき、友だちがうちに遊びに来て「おまえたち親子は敬語で話すのか」と驚かれたこともありました。
  子どもの頃、朝起きたらすでに父の治療が始まっていました。治療院は朝7時から開いていましたので。自宅と治療院がつながっていて、父は家族と一緒に朝ご飯を食べるためにいったん家に戻ってきます。朝食後、私は小学校に行きます。
形井  お父様の馬場白光先生*2は、朝、先生が学校行ったときと同じように、帰ってきてからもまだ治療をされていた。
馬場  そう。夕食が終わるころになると、今度は表に人力車が待っています。往療に行くためです。1955(昭和30)年を越した頃に、父はバイクを買いまして、バイクで往療に回るようになった。帰ってくると父は「ビービービー」とバイクのホーンを3回鳴らします。そうしたらおふくろが門を開けに行くので、私たち兄弟はその音が鳴ったら、急いで漫画本をしまい、代わりに勉強の本を取り出して机に座ります。そして帰ってきた父に「おかえりなさい」「今から寝ます」と言って、寝間へ行きました。
  ある日、父に「おまえ、器用なことをするね」と言われました。「どうしてですか」と聞くと「逆さまになっているぞ」と(笑)。父が帰ってきて、漫画本を勉強の本に変えるときにあわてていて、逆さまにしていたことがありました。

 

*2 馬場白光(ばば・はっこう) 1917−2001。馬場道敬氏の父。鍼灸師。1935年、福岡県八女市にて開業、1939年より岡部素道氏に師事。1941年に福岡県久留米市での診療を経て、1959年に福岡市中央区に移転。経絡治療学会副会長を務める。

形井  そんなお父さまのお姿を見ていて、あまり鍼灸の方向に行きたいと思わなかったのでしょうか。
馬場  そうですね。鍼灸師は忙しいので、鍼灸師にだけはなりたくなかったですね。高校は福岡大学付属に行っていたので、そのまま福大に進学しようと考えていたときに、担任の先生から「東京に行ったほうが見聞を広めることができるぞ」と助言されました。ちょうど福岡市で駒澤大学の試験があるので、1回受けてみろと勧められました。父に一応聞いてみたところ、父も「いいんじゃないか」と賛成したので、駒澤大学を受験したわけです。  
  私は親から離れたかっただけです。ただそれだけで東京行きを決めました。それでも、鍼灸師の免許は取っておけば一生使えるといわれたので、大学2年生のときに花田学園に入学しました。

 

つづきは、雑誌「医道の日本2016年10月号」でお読みください。